Shake the spirits 4





 アシュヴィンをはじめとする他の仲間たちが近々こちらに来るという知らせは、この間、柊から聞いている。それが本当に千尋の様子の確認なのか、それ以上の目的があるのかは来てみないとわからない。加えて豊葦原の不穏な揺らぎについて、そのうちの何人が気づいているものか……。とにもかくにも、何日間も葦原家に泊めるのが無理な人数であるのは明らかだった。
「あなたにまかせますよ」
「忍人だけならうちに来てもらってもいいのですが、鍛錬の場所がないと不満をこぼすのは目に見えてますし、こちらの生活に慣れるまではみな、一緒にいた方が何かと心強いでしょう。それに姫に対して勝手な抜け駆けをさせないためには、まとめて住まわせて互いに監視させるのが一番ですから」
「抜け駆け、ですか」
 思いもしなかった顔の風早に、柊はおやおやと笑った。
「ずいぶんと余裕ですねえ。みんな姫に会いたいばかりにやってくるというのに。そのうちの誰が、再会できた姫にここぞとばかり言い寄らないとも限らないのですよ?」
 風早は氷が溶けて薄くなってきたジントニックをぐいとあおった。
「一番ろくでもない振る舞いに及びそうなのが誰かはよくわかってますし、その人自身の口からおとなしくしているつもりだと今、聞いたばかりですから、当分そんな心配はしなくていいでしょう。それに千尋が本当に自分の意志で相手を好きになったのなら、俺は止めるつもりはないですよ」
「なるほど。姫の父君におかれては、娘がいつかは己の手を離れていくことへの心積もりはすでにできているというわけですね。それは大変結構。いかに掌中の珠としていつくしんで育てても、想う相手ができれば娘は去ってしまうもの。手離すのも愛、確かにそんな場合もあるのでしょうし」
「誰が父親ですか……」
 したり顔でうなずく柊に、風早はあきれたように話題を変えた。
「そんなことより千尋が不思議がってました。ふだん、あなたは食事をいったいどうしてるんだろうと」
 柊はおかしそうに口元をゆるめた。
「人間、霞を食べては生きられません。時には外食もしますが、私も自分の食べるものくらい作れます。手際は悪くないと思ってるんですが……」
「旅の途中であなたが何か料理しているところを見た記憶はないですね。それにあなたの家の台所はほとんど使ったことがない感じだった」
「実は2階にもうひとつあるんです。あの店を借りた時、上の住居部分を少し改装しましてね、1階とはちょっと雰囲気が違うんですよ……。 今度我が君がいらした時には、2階にもお連れするつもりでいます。ああ、そんな鋭い目をしなくてもいいですよ。私は君の刀の錆になる危険を冒すつもりは今のところないんですから」
 眉をひそめる風早に陽気に告げると、柊は店主を呼び寄せ何か小声で注文した。そして隣の椅子に置いてあった紙袋から、ごそごそと数冊の本を取り出した。
「君にずいぶんといじめられたせいで、もう少しで忘れるところでした。店の売り物の中になかなかおもしろそうなのを見つけたので、ぜひ君にと思いまして」
 冒頭の余計な台詞にはとりあわず、風早は並べられた本の題名を見つめた。『源氏物語における父性の考察』、文庫本『スパイラル・プラス』、カラフルな表紙の児童書『なないろのきりん』。
「これ……、あなたは全部読んだんですか」
「もちろんです。読まないと君に渡すのに適しているかどうか判断がつかないじゃありませんか」
 柊は分厚いハードカバーを指し示した。
「『源氏物語』は君も読んだことはあるでしょうね? これはその解説本のひとつなんですが、手元に引き取った美しい少女を育て上げる男の心理分析においてたいそう秀逸ですよ。これを読んで、私は『ろりこん』という言葉の意味を知ったんです。
『なないろのきりん』は子ども向けですが、大人が読んでも楽しめる。主人公の少女の危機に際して、体の色に合わせた特技を持ったきりんさんが彼女を救いに現れるという話で、私が特に気に入ったのは青きりんさんかな。青きりんさんの必殺技の、ブルーフラッシュ・ストームストライクボンバーの威力といったら……」
 いかにも感嘆したふうに首を振り、相手の渋い顔にもかかわらず滔々と続ける。
「こちらの文庫も人気があります。主人公はある日突然、事故で死んでしまうんですが、ふと目覚めると数年前の自分に戻っているんです。ちょうど時間が数年分巻き戻ったようにね。
 彼は驚きつつもそのまま何年間か過ごすものの、めぐりあわせの不思議さか、前回死んだのと同じ日時にまた死んでしまう。しかもそうした経験を何度も何度も繰り返すんです。で、繰り返すごとにたどる人生が少しずつ変化していき、驚愕の結末では何とですね……」
「いや、説明はいいですから」
「これは失礼。読む前に筋立てを知っては興も削がれてしまいますね。のちほどゆっくりどうぞ」
 だが風早は仏頂面で柊の方に本を押し戻した。
「気持ちはありがたいですが、遠慮しておきます」
「いえいえ、そう言わずにぜひ」
 ひらひらと手を振り、柊は本を再度風早に押しやる。そして再び風早から柊へ、また柊から風早へ。
 風早は顔をしかめた。
「忙しくて読んでる暇がありません」
「教師という職業が多忙なのはわかっていますが、耳成山に荒御霊も出なくなったことですし、少しばかり読書に割く時間ぐらいあるでしょう? ああ、それとも我が君にお渡しした方がいいのかな。『スパイラル・プラス』は一気に読みきってしまうおもしろさですし、他の二冊についても、ぜひとも我が君の感想を聞いてみたいですね」
 風早はもうそれ以上、何も言わずにビジネスバッグに本をしまった。柊御推薦の本なぞ読みたくはなかったが、いらないとつっぱね続ける方がよほど疲れる展開になりそうだと見越したためだ。柊がくすりと笑いをこぼす。
 もしやこれは、千尋の一件に対する一種の嫌がらせか意趣返しなのだろうかと風早が内心げんなりしたところに、店主が彼らのそれぞれにカクテルを置いた。先ほどの柊の注文の品らしい。
「和解のしるしに、私から君に贈らせてください」
 何をもってして和解と言わしめるのかまったく不明だったが、それでも風早は目の前のカクテルの美しさに目を奪われた。
 天空を駆け抜ける風を思わせる鮮やかな青。みずみずしい色合いはまた、目の前の水槽の揺らぎを切り取ってきたようでもある。縁に飾られたツイストレモンピール。さわやかで清涼感ある香り……。
「『ミレニアム・ウインド』と言うそうです。このカクテルの色も名も、何より君にふさわしいと思ったので」
 そう言う柊の前には、風早のものとは対照的な黄金色のカクテルがある。
「それは?」
 カクテルグラスの底には碧玉に似たブルーマラスキーノチェリーが沈んでいる。柊はグラスを目の高さに上げ、豊饒に輝く色彩を楽しんだ。
「口あたりはあくまでなめらか、やさしい甘さにひそむきりりとした酸味。優雅な香りが忘れ難い余韻を残し、何度でも唇を寄せて味わいたくなる……。『Yes,My Lady』……私がもっとも気に入りの飲み物です」
 詩を詠うように言葉をつむぐと、グラスを風早のそれに近づけた。
「では、愛しき我が君の幸いを祈って」
「ええ、千尋の幸せに。それとあなたの行動が、これからも千尋の信頼を損なわないものであるように。……あなたを千尋から遠ざけなかったことを、決して俺に後悔させないでください」
 後半部分に、聞いた者の背をひやりとさせるものが含まれていたのは気のせいだったろうか。だが柊はにこりと微笑んだ。何の含みもなさそうな、にこやかな笑み……。
「姫の幸せを願うという点において、私たちの意見は常に一致していますよ。その実現方法に多少の相違があるとしても。それに、私が姫への接し方を改めるつもりだというのは本当ですから―――」
 もっともどう改めるつもりなのか、彼はひとことも口にしてはいなかったが。
「改める、ね……」
 風早のつぶやきにかぶさるように、グラスの縁と縁とが澄んだ音を響かせる。そしてこれまで幾千の星の行方を見定めてきた青年は、実に美味そうに手の中のカクテルを飲み干したのだった。






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